私が初めて柿右衛門磁器を知ったのは1989年、長崎に留学した時のことです。
交換学生グループに向けて、興味のあることについて質問があり、私は手を挙げ「アートです」と答えました。たいへん親切な方が日帰り物見遊山にお誘い下さったので、彼の時代物ヴォルボに乗り込み、日当たりの良い大村湾を巡って有田まで繰り出しました。素晴らしい一日で、風光明媚な風景の中ドライブしているうちに、その方と私は多くの趣味や興味を共有していることが分かりました。その中の一つが、後で気付いたことなのですが、英国製革靴に目がないことでした。有田でのいくつかの歓迎会にお邪魔した際、彼の少し拘りのある靴の脱ぎ方でそれが分かりました。しかし、何よりも私を幸せにした最大のできごとは、有田の磁器産業との出逢いでした。その日こそ、私が日本の芸術を研究する決心の日となったからです。この遠出には柿右衛門工房への訪問もごくあたりまえに含まれていましたが、ロクロで完全な壺を成形したり、完璧な技を駆使してデザインの絵付けをする、熟練陶芸職人への畏怖の念は今でもはっきりと覚えています。当時は磁器製作について全く無知であったにも拘らず、これこそ至高の磁器であるに違いないと感じたのです。
その後数十年、有田磁器、殊に柿右衛門についての私の研究はとどまるところを知りませんでした。陶片を熟視し、交易記録を調べているうちに、色合いについての論点が納得できるようになりました。1650年代、日本がオランダと磁器取引を開始した頃までには、オランダのインテリア装飾の一部としての磁器がもう数十年にわたって重要な位置を占めていた、という事実を知ることは重要です。1602年にVOCオランダ東インド会社が設立されて以降、中国の磁器が既にオランダ市場を席捲していました。そのため、磁器を内装に飾るという考えは特別に新しいことではありませんでした。もしあなたが1650年代に裕福な家庭に生まれていたとしたら、両親、あるいは祖父母の代から、磁器を飾るのを目にしていたことでしょう。
しかしながら日本の磁器には、通常の中国からの輸入品にはない特別な要素が秘められていただけでなく、色絵もありました。柿右衛門が1670年頃に市場に進出してくると、それ以前に知られていた他のどの輸出品をも凌いでいることが、オランダの消費者にはわかりました。当時のヨーロッパの人たちには中国製品と日本製品の相違が分からなかった、と時おり言われますが、これはオランダの本物を見る目を持つ上流階層には当てはまりませんでした。そのことは、特徴ある柿右衛門様式のものが入手できなくなった18世紀初頭頃の文献からもわかります。例えば、競売所カタログの磁器に関する掲載文には、単に「中国製」とか「日本製」とあるだけでなく、後者には更に特別な分類で明らかに柿右衛門を指している描写があります。「古い色絵の日本製磁器、最高品質」と。
3世紀前の私の同胞は紛れもなく、30年前の私が直感的に察し、今ではより包括的に把握できている事実を理解していました。すなわち、時代を超えて柿右衛門はまさに「至高の日本磁器」なのだということを。