17世紀の後半、有田・南川原の地に美しい色絵磁器が誕生しました。精巧に形造られた乳白色の美しい素地に、優美な文様を鮮やかな絵具であらわしたそのやきものは、日本のみならず、欧州にも渡り世界的に称賛を浴びました。それらは今日、「柿右衛門」あるいは「柿右衛門様式磁器」と呼ばれています。「柿右衛門」の名を冠するのは、その様式の開発者であり、最も上質な製品を作ったのが酒井田柿右衛門率いる柿右衛門窯であったことからとされています。
柿右衛門窯は江戸時代初頭に始まりました。以来、代々酒井田家当主がその名と共に継承し、現当主の十五代まで連綿と続いています。歴代のなかで最も有名なのは、初代柿右衛門(1596~1666)でしょう。酒井田家に伝わる文書『赤絵初りの覚』には、1647年頃に、初代柿右衛門が苦労の末に赤絵(色絵磁器)の焼成に成功したことが記されています。近年の発掘調査の成果からも、1640年代には有田で色絵磁器の生産が始まったことが明らかとなっています。
日本初の磁器が有田で誕生したのは1610年代のことで、その草創期に生産されていたのは染付磁器や青磁でした。色絵技術という新たな表現方法を得て、有田における磁器生産はさらに発展し、1650年代末にはオランダ東インド会社によって欧州輸出が始まりました。同社は上質な磁器を求めて厳しい注文を繰り返し、その要求に応えるように誕生したのが、細部までこだわった最上質の色絵磁器、柿右衛門様式磁器でした。
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柿右衛門窯最も隆盛を誇ったのはその頃のことで、四代柿右衛門(1641~1679)と五代柿右衛門(1660~1691)の時代にあたります。31歳にして天寿を全うした五代柿右衛門は、まだ1歳だった六代のために、亡くなる前に七つの秘伝書を遺しました。そのうちの一つが土の原材料や配合について記した『土合帳』で、そのなかの「御道具白焼土(おどうぐしろやきつち)こそ、乳白色の素地すなわち「濁手(にごしで)」に関する記述と考えられています。
しかし、六代柿右衛門の時代には、柿右衛門様式の流行は終わり、柿右衛門窯では金襴手様式磁器を作るようになり、いつしか濁手の生産は途絶えました。
17~18世紀の欧州では、遥か遠い異国である東洋から運ばれてきた磁器は、「白き黄金」と呼ばれるほど貴重なものでした。欧州各地の王侯貴族はこぞって磁器を購入し、宮殿や城館を飾り、また日々の食事でも用いました。そのなかでも最も高級品として扱われたのが、17世紀後半に流行した柿右衛門様式磁器です。当時、世界の海上の覇権を握っていたオランダの統治者であったウィリアム三世と結婚した英国女王メアリ二世は、日本から渡ってきた柿右衛門様式磁器をいたく気に入り、その流行を欧州各地に広めた人物として知られています。特に、夫妻を中心とするオランダと英国の宮廷では、瞬く間に柿右衛門様式磁器が人気を博したため、両国の貴族の城館には今でも無数の柿右衛門が伝来しています。
なかでも、最も有名なコレクションの一つに、英国のバーリー・ハウス・コレクションが挙げられるでしょう。エリザベス一世の寵臣であったウィリアム・セシルによって建設されたエクセター侯爵家の城館で、皿・鉢・カップといった柿右衛門の食器類が遺るほか、秀逸な人形類(相撲人形、犬、鶏など)のコレクションで知られています。チムニー・ツリーと呼ばれる、暖炉の上にピラミッド型に設置された棚に飾られた柿右衛門は、17世紀当時に飾られていた様子を伝えてくれます。
ドイツ・ドレスデン宮殿のコレクションを形成したアウグスト強王は、18世紀初頭に欧州初の磁器窯として始まったマイセン窯に、まず柿右衛門様式磁器の模倣品を作るように命じました。その後、英国のチェルシー窯やダービー窯、フランスのシャンティーイ窯でも数多くの柿右衛門の模倣品が作られました。19世紀になって美術の研究が世界的に盛んになると、「柿右衛門」の名が日本からも欧州にも伝わるようになり、18世紀まで大変な人気を博したそれらの色絵磁器が「柿右衛門様式磁器」であることが認識されるようになりました。
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